がらんどう

雑感.

幼児性と愛情

褒められたい。自分が一番でありたい。かわいがられたい。

そのような幼児性は、発達過程で他者との干渉を経ながらどのように克服されていくのだろうか。

無論、精神の発達は個々の生育環境や経験に影響されるところが大きいと思われるため、

系統発生的にこうである、というようなことがあるのかどうかすらわからない。

(ただの勉強不足で私が知識をもたないだけかもしれない。)

ただ、世間一般の21歳と比較したときに、私のそれが必ずしも健全ではないということには何となく気付き始めている。

 

前回記事「解体」でも記述したことかと思うが、

自分の醜い内面に触れるのがとてつもなく恐ろしい。

自分がいかにちっぽけでわがままな精神性なのか、知るのが怖い。

自分には何の価値もないと知りながら、それでも精神性だけは他者よりも大人びていると信じて自尊心を保ってきたが、

その上内面の醜さに直面することは、

大げさでもなんでもなく、自身にとっての生存の危機であると思う。

 

でも、このまま生きていくのか。

愛される価値はないが愛されたい、自分より一回りも二回りも歳が離れている男性に撫でられたり、抱きしめられたりしたい、すごいと言われたい、努力を認められたい、

そんな美しいとは言えない感情と戦いながら、他者を羨み、妬み、

この先も文字通りたったひとりで生きていくことができるのだろうか。

 

「自身は愛されずに育ってきた」と主張するひとたちは、

愛されて育ってきたひとたちの幸福や成功を、その生育環境に帰する傾向があるように思う。

私はTwitterなどのSNS上でそのような発言を見るのが苦手だった。

自身の無能力や社会性のなさを生育環境のせいにするのは端的に言ってダサいし、

幸福や成功は何の投資もなしに手にできるものではないから。

きっとそのような発言は世間一般的には「甘え」なんだろうし、

自分は世間に「甘え」ていると思われたくなかったから、そういう意味で賛同したくない意見だった。

 

でも。

口うるさい母親に、娘には甘い父親

将来はお父さんと結婚したい、という幼き日の口癖。

思春期に、第二次性徴を意識して父親を避けること。それを悲しみながらも娘を愛し続ける父親

そういうステレオタイプ的な家庭に育っていたら、私は今頃どういう人間に育っていたのだろうとは思う。

こんなに女性であることを嫌がらなかったかもしれない。

社会的な抑圧を気にしないような人間だったかもしれない。

普通の価値観を普通に受け入れて、友達とうまくやれたかもしれない。

何より、自分は愛されない、愛されたいと苦しむこともなかったかもしれない。

もちろんそんなステレオタイプ的な家庭にはその家庭なりの問題があるのだろうが。

 

どうしたら自分の中の幼児性を克服して明るく生きられるのか、

知りたいと思いながらも、きっと知るためには醜い自己に直面しなければいけないのだろうと考えると、

克服するまえに、死んでしまうかもしれない。