解体
自身を解体し、分析することへの恐怖がある。
心理臨床事例などを読んでいると、私が抱えている性格的な問題は根深く、
それをエピソード記憶と関連させながら分析する作業がある意味で有効なように思える。
ただ、自身のこととなると、どうしても思い出したくないことに、見たくないものに、蓋をしてしまう。
高校のとき、行きたくもないカウンセリングルームで胡散臭い臨床心理士のおじさんと対峙して、解決を図れなかったどころか不快な思いをしたことがある。
臨床心理士という職業に対して感じる胡散臭さみたいなものを長年忘れながら自身は志すまでになっているが、
最近心理臨床の書を読んでいると、そのとき感じていた胡散臭さを追体験する。
精神科医や臨床心理士に相談することに抵抗がある人が多いのも何となくわかる気がする。
心の問題が根深い人間が求めているものは、きっと数時間話を聞いただけの他者に期間限定で問題を解決してもらうことではないのだろう。
あるいは、自分のことは自分が一番よくわかっているという思いがあるのかもしれない。
それは自身が心理学を志し、専門的知識やエビデンス、第三者として関わり支援していくこと、実践的な経験の累積を価値あるものと一方では認めていながらも、やはりどうしても覚えてしまう感覚ではある。
もちろん、すべての人がそうとは言わないが。
学校での問題行動や不登校の事例などは、私の負の感情をひどく刺激する。
自身が充分に安定的な実績や地位を築いているというわけでもない以上、
それを「克服した」と言うことには抵抗があるし、
仮に大学を無事に卒業して、何らかの心理学的知見を要する職業に就いたとしても、それは永遠に私の負の感情を刺激し続けるかもしれない。
部分的にはきっと自己保身のために、学習支援に携わっているけれども、
それで克服できるような傷ではない。
というか、根本的に「克服」という言葉が好きではないような気がする。
もちろん、「克服」=「なかったことにする」という意味ではないが、
感覚的にはそういう印象を覚える言葉だからだ。
自分史における嫌な経験を気に留めないようになることがよしとされるのは何だか悔しいし、自分が忘れることで誰の記憶にも残らなくなるというのも悲しい。
きっとそういう思いもある。
だから私はいつまで経っても自分史に関することには敏感であって、
恋愛対象が不健全であることも、人との距離感が測れないことも、
全て無意識のうちに肯定してしまっている。
克服への恐れが、解体を思いとどまらせる。
自分が本当は誰に何を望んでいるのか、知るのが怖い。