生きていていいのか
当初思い描いていた通りに、とはいかないし、取りかかりの遅さや進捗状況に絶望することもあったが、
毎日そこそこに英語をやり、そこそこに書を読み、そこそこにタスクを進め、そこそこに習い事に取り組みながら過ごしている。
ただ、「そこそこに」やることは比較的穏やかな気持ちで生活することを許してくれるが、
ほっと息をつく瞬間が貴重でさえあるような、いつも何かしらに身を投じている周囲と比べると、自分のどこに生きている価値があるのか、わからなくなる。
母も、最近の父も、亡くなった祖父も祖母も、(少なくとも私に対峙しているときには)人より優れた結果を求めない人間だった。
祖父は亡くなる前に私に宛てた手紙に、「偉くならなくても、お金持ちにならなくても、笑って過ごせればいい」というようなことを書いていたような気がする。
究極的には、私もそう思う。でも、そんなにのほほんと生きていられるような社会でもないと思う。
昔から身近な他人と、成績や特定の能力について比べてしまう節があった。
仲良くなれたと思った人でも、常に自分が勝っていると思わなければ穏やかでなかった。
確かに私は負けず嫌いだし結果がついてくると嬉しいけれど、少なくとも意識的には人に勝つことを目的として生きている人間ではない。
友人との比較は仲良くなると自動的に発生してしまうような類のもので、自分でもどうしようもなく、苦しかった。今でも苦しい。比較しないようにする、ということは不可能だった。
物心ついたときから、容姿について貶められることが多く、今でも容姿を形容する言葉を聞くのは苦手だ。
だから少なくとも私は無条件に人に愛されるような見た目でもないし、
性格に難や癖があるというのも自覚している。
性格をどう変容させることができるかというのは永遠の課題のような気がしていて、努力すればするほど表面上は綺麗に繕った自分と、真の内面の醜さの間で不協和を起こしてしまう。
実際「どうやったら理想の性格に変えられるか」という命題に対する明快な答えは未だ、いやもしかしたらこれからも、ないのだろう。
いずれにせよ、私が生きているだけで肯定されたり、信用されたり、求められたり、愛されたりするような資格のある人間ではないという気持ちは最近ますます強くなってきている。
だから。何者かにならねば、と思ってしまう。
何者かになれる人なんて少ないし、きっと自分はそうなれないだろう、いや、でも(特に根拠はなく)自分はそうなれる人間なのかもしれない、だって他の人と同じように生活できないから・・・
自分が思い上がっているのか、自己肯定感が低いのか、救いを求めているのか、多分後者だろうけれど、こういう考え方をしてしまう自分がすごく嫌だ。
人並み以上に本を読まねば、勉強をしなければ、口先だけ達者な人間で終わってしまう。
そう焦りつつも中途半端な自負心にしがみつきながら、自分とは段違いに努力をしている周囲を見て、絶望する。
自分には何があるんだろう。何ができるんだろう。
きれいごとは全然私の気持ちを楽にはしてくれなかった。
「ここにいていい」という許可を与えるのはいつも自分ではなく、社会であったから。
人より多くの面で欠陥がある分、何かしらの結果を残したい、でもこの動機自体が稚拙なような気がして、課題をこなしながらもどんどん自信を失う日々。
どこに行きつくのか、いつまで生きられるのか。