社会的に無能であること、でも生きねば
最近、他人の何気ない一言が刺さる。
例えば、「知っている人を見かけても挨拶しない人間は何様のつもりなんだ」と、私を含む全体に向かって発言した人がいたとする。
そのとき、「もしかしたら私は自分で気が付かない間に相手と同じ空間にいて、挨拶をしなかったのではないか。その場合わざと無視したわけではないけれど、相手にとって自分はとてつもなく失礼で、生意気で、嫌な人間になってしまったのではないか」
というような信念が(自分でも馬鹿らしいとは思っているのだが)何度も何度も頭の中を巡る。
実際私は視力がかなり悪いし、移動中などは主に画面や景色を見るなど人の顔には注目せずに過ごしているので、ありえなくもない話なのだ。
そうして、自分は人によい印象を与えることができない、まともなコミュニケーションがとれない、皆に嫌われているような気がする、そういう人は何をやったって成功しない・・・というような負の思考ループに陥る。
認知行動療法なら即刻修正されるタイプの自動思考だ。でも抜け出せない。
他人には私の認知はかなり歪んでいるものとして映るだろうし、
認知の歪みを治すべきだと、10人いたら9人はそう言うだろう。
でも私自身はそういうものも含めて私だという思いがあり、
自分を肯定できるような自分、なんてそれこそ否定したい類の自己像だ。
ある点において有能であると思ったり、他者に好かれていると感じたり、
そういう自分に対する肯定的な信念は自分をつけあがらせ、堕落させるような感じがしてしまう。
治したいとは思わない。でもこんな自分が生きていていいのかと思うことはある。
それでも、生きていかなければならないから、
それを自分に言い聞かせるために今この記事を書いている。
人間的に欠陥があると思われていたって、視線が冷たくたって、かわいがられなくたって、無能を笑われたり呆れられたりしたって、
私は勉強していい。
他者に受け入れられていないと感じるとき、
「人間的に欠陥がある奴なんて、たとえ勉強や研究といった個人プレーが中心となる場面でも絶対に成功しない。いくら勉強したって無駄だ。勉強して賢くなろうということがすでにおこがましいとは思わないか。」
という声が自分を責める。
でもやらなくちゃ。
人間的に欠陥があるなら、勉強しないと生きていけないから。
それに、何より勉強したいから。
勉強とは孤独との戦いだ、最後は一人でやらなければならないから、
みたいなことはよく言われるけれど、
私は物理的な個体としての「一人」で戦うだけではなくて、
前述したような、精神に向けられた無数の棘に抗って、
身を縮めながら、でも大胆に、勉強していかなかればならないのだ。
最近は他人の有能さそのものだけでなく、
その人がその有能さを他者に認められて幸せな選択をしているのを見て、
本当に自分がちっぽけに思える。
無能で、誰からも必要とされていない自分が。
他人を妬んでばかりで中途半端な努力しかしていない自分が。
そもそも、妬んでしまう自分が。
でも、生きていかなきゃ、勉強したいなら、しなきゃ。
誰に認められなくても、しなくちゃ。
死にたくなったら死ねばいい。