社会性と生きづらさ
夏季休暇も残すところほんの数日となってしまった。
昨夏は特に月が替わってから無為に過ごしてしまったと感じる日が多く、
充分に休養できたという印象だったが、
今夏は本当にあっという間だった。
夏季休暇が始まる前に、
「習い事に毎日行くこと」「英語の勉強をすること」「心理学の本を沢山読むこと」
という目標を立てていた。
毎日は無理だったが、ちょうどいいペースで習い事に通えていたし、
TOEICまでは問題集も進めていたし、
入門の入門という内容ではあったが本も10冊程度読めた。
そのような事実からしてまあまあの夏季休暇だったのではないかと思っていたが、
終わりを目前にして、実は自分は何もしていなかったのではないか、もっと読める本があった、やれることがあったという思いも強い。
大学が始まってしまう前に、秋学期の目標やら意識の高いことをここに書こうと思っていたが、精神の具合が悪く、そういう気分にもなれないので、それはまた今度。
春学期も全く志気が高まらないまま、とりあえず目の前のことをこなすという戦法だったけれどもよい成績だったし、まあいいか。
とりあえず秋学期の大雑把な目標としては、生存すること、としておきたい。
一番大事なのは自分自身とその人生なので。
さて、「社会性と生きづらさ」。
小学生のときからどうも社会性に問題があるとは思っていた。
対人関係でトラブルが多かったり、時には友人に対して攻撃的であったり、そうであったかと思えば回避的になって友人が一人もできなかったりということに悩み続けてきたが、
それは集団にいる以上避けられない類のものであり、児童期~思春期特有の人間交流のあり方であるとさえ思っていた。
だが、最近になってどうやらそれは違うのではないかということに思い至っている。
特に高校生から今にかけては回避傾向と他者に対する劣等感、そこからくる他者への過剰な優位性の誇示とそれに伴う若干の攻撃性という問題がある。
私は心理学を志す立場として、あくまで「健常」であることが想定され、発達障害や自閉症の方々は自分たちの外で「支援」すべき対象であるということが期待されているので、非常に複雑である。
診断を貰ったからといって、不適応や生きづらさが改善されない限り楽になることはないだろうが、
それでも集団の中に位置づけられた自分を見てみると、「健常」であることが期待され、そのように生きていくことによって二次的にストレスを抱えている場面もあるんだろうなと感じる。
というだけです。特にオチも、改善への意思や提案もない。アウトプットのためだけに書きました。
そういったことが意識されつつあったからかどうかは知らないが、
最近は臨床にも興味がある。
それを職業にしようというところまでは思い至らないし、むしろ向いていないような気さえしているが、単純に学問として学びたい。
秋学期は暇を見つけて読書や映画鑑賞も織り交ぜながら生活したいと思っているが、どうだろう。
体力がないので、大学が始まったらそんな余裕はないかもしれない。
昨年から続けているバレエ教室は辞めようと思っている。
気分が乗らないとか具合が悪いとかで行けない日も多く、
それでありながら月謝は払い続けなければいけないし、金銭的に負担してくれているのは父だし、勿体ない。
決断が遅かったために既に何かに投資できたはずの数万円を無駄にしているのではないかと考えてこれまたつらくなる。決断した以上はきちんと動きます。
歌やダンスは熱意が冷めたり回復したりしながらも、何とか途切れず通えている。
この2つに関してはこれからも惰性で続けつつ熱したり冷めたりして1cmでも成長できたらそれでいいかとは思っている。でも、最近少しつらいかな。
そんなところです。今学期も学業に集中できますように。
幼児性と愛情
褒められたい。自分が一番でありたい。かわいがられたい。
そのような幼児性は、発達過程で他者との干渉を経ながらどのように克服されていくのだろうか。
無論、精神の発達は個々の生育環境や経験に影響されるところが大きいと思われるため、
系統発生的にこうである、というようなことがあるのかどうかすらわからない。
(ただの勉強不足で私が知識をもたないだけかもしれない。)
ただ、世間一般の21歳と比較したときに、私のそれが必ずしも健全ではないということには何となく気付き始めている。
前回記事「解体」でも記述したことかと思うが、
自分の醜い内面に触れるのがとてつもなく恐ろしい。
自分がいかにちっぽけでわがままな精神性なのか、知るのが怖い。
自分には何の価値もないと知りながら、それでも精神性だけは他者よりも大人びていると信じて自尊心を保ってきたが、
その上内面の醜さに直面することは、
大げさでもなんでもなく、自身にとっての生存の危機であると思う。
でも、このまま生きていくのか。
愛される価値はないが愛されたい、自分より一回りも二回りも歳が離れている男性に撫でられたり、抱きしめられたりしたい、すごいと言われたい、努力を認められたい、
そんな美しいとは言えない感情と戦いながら、他者を羨み、妬み、
この先も文字通りたったひとりで生きていくことができるのだろうか。
「自身は愛されずに育ってきた」と主張するひとたちは、
愛されて育ってきたひとたちの幸福や成功を、その生育環境に帰する傾向があるように思う。
私はTwitterなどのSNS上でそのような発言を見るのが苦手だった。
自身の無能力や社会性のなさを生育環境のせいにするのは端的に言ってダサいし、
幸福や成功は何の投資もなしに手にできるものではないから。
きっとそのような発言は世間一般的には「甘え」なんだろうし、
自分は世間に「甘え」ていると思われたくなかったから、そういう意味で賛同したくない意見だった。
でも。
口うるさい母親に、娘には甘い父親。
将来はお父さんと結婚したい、という幼き日の口癖。
思春期に、第二次性徴を意識して父親を避けること。それを悲しみながらも娘を愛し続ける父親。
そういうステレオタイプ的な家庭に育っていたら、私は今頃どういう人間に育っていたのだろうとは思う。
こんなに女性であることを嫌がらなかったかもしれない。
社会的な抑圧を気にしないような人間だったかもしれない。
普通の価値観を普通に受け入れて、友達とうまくやれたかもしれない。
何より、自分は愛されない、愛されたいと苦しむこともなかったかもしれない。
もちろんそんなステレオタイプ的な家庭にはその家庭なりの問題があるのだろうが。
どうしたら自分の中の幼児性を克服して明るく生きられるのか、
知りたいと思いながらも、きっと知るためには醜い自己に直面しなければいけないのだろうと考えると、
克服するまえに、死んでしまうかもしれない。
解体
自身を解体し、分析することへの恐怖がある。
心理臨床事例などを読んでいると、私が抱えている性格的な問題は根深く、
それをエピソード記憶と関連させながら分析する作業がある意味で有効なように思える。
ただ、自身のこととなると、どうしても思い出したくないことに、見たくないものに、蓋をしてしまう。
高校のとき、行きたくもないカウンセリングルームで胡散臭い臨床心理士のおじさんと対峙して、解決を図れなかったどころか不快な思いをしたことがある。
臨床心理士という職業に対して感じる胡散臭さみたいなものを長年忘れながら自身は志すまでになっているが、
最近心理臨床の書を読んでいると、そのとき感じていた胡散臭さを追体験する。
精神科医や臨床心理士に相談することに抵抗がある人が多いのも何となくわかる気がする。
心の問題が根深い人間が求めているものは、きっと数時間話を聞いただけの他者に期間限定で問題を解決してもらうことではないのだろう。
あるいは、自分のことは自分が一番よくわかっているという思いがあるのかもしれない。
それは自身が心理学を志し、専門的知識やエビデンス、第三者として関わり支援していくこと、実践的な経験の累積を価値あるものと一方では認めていながらも、やはりどうしても覚えてしまう感覚ではある。
もちろん、すべての人がそうとは言わないが。
学校での問題行動や不登校の事例などは、私の負の感情をひどく刺激する。
自身が充分に安定的な実績や地位を築いているというわけでもない以上、
それを「克服した」と言うことには抵抗があるし、
仮に大学を無事に卒業して、何らかの心理学的知見を要する職業に就いたとしても、それは永遠に私の負の感情を刺激し続けるかもしれない。
部分的にはきっと自己保身のために、学習支援に携わっているけれども、
それで克服できるような傷ではない。
というか、根本的に「克服」という言葉が好きではないような気がする。
もちろん、「克服」=「なかったことにする」という意味ではないが、
感覚的にはそういう印象を覚える言葉だからだ。
自分史における嫌な経験を気に留めないようになることがよしとされるのは何だか悔しいし、自分が忘れることで誰の記憶にも残らなくなるというのも悲しい。
きっとそういう思いもある。
だから私はいつまで経っても自分史に関することには敏感であって、
恋愛対象が不健全であることも、人との距離感が測れないことも、
全て無意識のうちに肯定してしまっている。
克服への恐れが、解体を思いとどまらせる。
自分が本当は誰に何を望んでいるのか、知るのが怖い。
生きていていいのか
当初思い描いていた通りに、とはいかないし、取りかかりの遅さや進捗状況に絶望することもあったが、
毎日そこそこに英語をやり、そこそこに書を読み、そこそこにタスクを進め、そこそこに習い事に取り組みながら過ごしている。
ただ、「そこそこに」やることは比較的穏やかな気持ちで生活することを許してくれるが、
ほっと息をつく瞬間が貴重でさえあるような、いつも何かしらに身を投じている周囲と比べると、自分のどこに生きている価値があるのか、わからなくなる。
母も、最近の父も、亡くなった祖父も祖母も、(少なくとも私に対峙しているときには)人より優れた結果を求めない人間だった。
祖父は亡くなる前に私に宛てた手紙に、「偉くならなくても、お金持ちにならなくても、笑って過ごせればいい」というようなことを書いていたような気がする。
究極的には、私もそう思う。でも、そんなにのほほんと生きていられるような社会でもないと思う。
昔から身近な他人と、成績や特定の能力について比べてしまう節があった。
仲良くなれたと思った人でも、常に自分が勝っていると思わなければ穏やかでなかった。
確かに私は負けず嫌いだし結果がついてくると嬉しいけれど、少なくとも意識的には人に勝つことを目的として生きている人間ではない。
友人との比較は仲良くなると自動的に発生してしまうような類のもので、自分でもどうしようもなく、苦しかった。今でも苦しい。比較しないようにする、ということは不可能だった。
物心ついたときから、容姿について貶められることが多く、今でも容姿を形容する言葉を聞くのは苦手だ。
だから少なくとも私は無条件に人に愛されるような見た目でもないし、
性格に難や癖があるというのも自覚している。
性格をどう変容させることができるかというのは永遠の課題のような気がしていて、努力すればするほど表面上は綺麗に繕った自分と、真の内面の醜さの間で不協和を起こしてしまう。
実際「どうやったら理想の性格に変えられるか」という命題に対する明快な答えは未だ、いやもしかしたらこれからも、ないのだろう。
いずれにせよ、私が生きているだけで肯定されたり、信用されたり、求められたり、愛されたりするような資格のある人間ではないという気持ちは最近ますます強くなってきている。
だから。何者かにならねば、と思ってしまう。
何者かになれる人なんて少ないし、きっと自分はそうなれないだろう、いや、でも(特に根拠はなく)自分はそうなれる人間なのかもしれない、だって他の人と同じように生活できないから・・・
自分が思い上がっているのか、自己肯定感が低いのか、救いを求めているのか、多分後者だろうけれど、こういう考え方をしてしまう自分がすごく嫌だ。
人並み以上に本を読まねば、勉強をしなければ、口先だけ達者な人間で終わってしまう。
そう焦りつつも中途半端な自負心にしがみつきながら、自分とは段違いに努力をしている周囲を見て、絶望する。
自分には何があるんだろう。何ができるんだろう。
きれいごとは全然私の気持ちを楽にはしてくれなかった。
「ここにいていい」という許可を与えるのはいつも自分ではなく、社会であったから。
人より多くの面で欠陥がある分、何かしらの結果を残したい、でもこの動機自体が稚拙なような気がして、課題をこなしながらもどんどん自信を失う日々。
どこに行きつくのか、いつまで生きられるのか。
何とか
期末試験を乗り越え、夏休み6日目を迎えています。
過去の投稿を見ると試験前はひどく気分が沈んでいたようですが、
最善は尽くせた気持ちでいます。何にせよ、よかった。
目下悩んでいることは、昼夜逆転しかけていることと、そのせいか日中動けないこと。
幸いにして今のところ毎日習い事には通えているし、自主稽古もできているが、
それでも夏休みにしようと思っていたことの1/4にも満たない充実感だと思う。
夏休みには心理学の本を沢山読むこと、英語の勉強をすること、毎日習い事に行くことを目標に期末試験と戦っていたわけですが、
実際明確なスケジュールがないこと、スケジュールが狂いがちなこと、大学までやや遠いことなどがあって、前2者に関してはいまだ実行されることなく、どうしても惰眠を貪ってしまう。
昨年の夏休みも随分堕落した生活を送ってしまっていて、その後反省したつもりだったのだが、なかなか思うようにはいかないですね。かといって、それで片付けていいことだとも思っていません。
話は逸れるが、自分はまさに本ブログのタイトルよろしく「がらんどう」であると思う。
あまり記憶や推論に優れていない。効率が悪い。意志が弱い。人並み以上にできることがない。それでいて、自分は人とは違っているはずだという自負を捨てきれない。
自覚しなければ、がらんどうのままどんどん見かけだけが肥大していくようで、
最近はそのずれによく苦しんでいる。
何もできなくても存在していいんだ、と思えるような強い自己肯定感ももちえないし、
愛らしい見た目や扱いやすい性格とも思わない。
そういう意味で、ありのままに愛されてしかるべきひとたちと自分は区別しなければならないと思う。
だからせめて勉強しなければ、真剣に何かをやらなければ、私が生きていていい理由にはならないと思う。
今日習い事での自分の様子を初めて客観的に見た。
年数が長いからといって人よりできることだと自負していたが、その出来はひどいものだった。正直かなりショックだった。
ただ、「自分が何かをできない」ということに目を背け続けてきたような気がする(だって、そうでなければ存在価値が得られない)ので、
一回積み上げたものをゼロにしなければならないのかなあ。でも、難しいと思う。
以下はメモです。やりたいことを改めて整理。
・毎日習い事に行くことを継続する。帰宅後、10~15分程度振り返りの時間を設ける。どれだけの意味があるのかわからないけれど・・・
・英語を勉強する。
→(具体的には?)
・語彙を増やしたい。まだまだ穴があるような気がするので、
準1級(前回記事では面接終了直後でしたが、無事受かっていました。よかった。)の単語集、1級の単語集を併せて勉強する。その際、あまりにも覚えにくいようなものは体制化して覚える努力をする。
・英文に触れる。
→準1級のテキストを使用。+平易な洋書を多読。
・心理学の本を読む
→講義中で多数の優良な書籍が推薦されていた。図書館に籠る時間がないなら借りて家で読むなど、読む時間をつくる。
学習支援のアルバイトに加えてまた何か始めようかと思っている。
新たなことを始めることで自分の生活が崩れないか心配で、積極的な気持ちにはなれないところではあるが。
結局のところ他人の支援のためというより自分の傷を癒すためにしていることだが、自分の傷が癒えているとは感じられない。
まだ大学を卒業していないし、不完全な身分であるということもあるかもしれないが・・・
今回はこれまで。
近況
学習支援のアルバイトを始めた。
英検準1級の1次試験をパスし、先日2次試験を受けてきた。
試験が1週間前に迫っている。
元来こつこつ計画を立てて勉強する性格であるし、
昨年はそれで全ての履修科目で最上評価をもらった。
だが今回はどうもやる気が起きない。
やる気が起きないというのも何だかしっくりくる言葉ではなくて、
状況として差し迫っていることもわかるしきちんと勉強したいという気持ちはあるけれども、
とにかく眠い。だるい。そして常に地面すれすれを飛んでいるような低空飛行感。
いや、飛行すらできていないかもしれない。
ベッドの上でスマホの画面を眺めて半日、なんてことざらにある。
だが別に画面の中に魅力的な刺激があるわけではなくて、ただただ惰性で眺めている。
友人が試験勉強をしているのを見て焦る。焦るけれども身動きができない。
そのような状態で、苦しい。
わけもわからず情緒不安定な時期というのが定期的にやってくることは自分でもわかっていて、
大体「わけのわからなさ」の所在がわかったタイミングにやや遅れて、それがほぐれる。やっと解放された、と思える瞬間がある。
だが今回は違う。
どうも、6月上旬くらいからこの状態は続いているようで、
要所要所本当に体力的にもギリギリの状態で切り抜けてきているけど、そろそろどうにもならなくなってきた。
わけもわからず情緒不安定な時期に心がけていることは2つあって、ひとつはとにかく学校には行くこと。もう一つは、必要最低限のことだけは片付けること。
幸い学校には休まず通えている。
しかし、とにかくやり始めないことには、と思って手をつけても、どうしても集中力が続かない。心がずしんと重い。孤独感。ひとりで失敗して、没落するんじゃないか。取り残されていくんじゃないか。そういう思い。
普段のちょっとした小テストなんかにも張り切りすぎていた節はあった。
自分の求めているクオリティのために何時間だって睡眠時間を削ったし、それで就寝時刻がどんどん後ろ倒しになって定着している感じも否めない。
苦しい。
何にも興味がもてない。
夏休み何がしたい?と言われても、本当に夏休みがくるのか確信が持てない。
楽しみであるはずのことが、楽しみではなくなった。人と関わることそのものが億劫になってしまった。
いつもいつでも友人といたいわけではないけれど、それでも挨拶を交わしあうくらいの仲は築きたかった。
誰かしらの一番になりたかった。少なからず性的な、単なる信頼関係以上のもので繋がっている恋人との関係と友人関係では質が違うと私は思っていて、
恋人と信頼関係を築けているから友人がいなくても社会性の証明にはなるとは私は思えない。
早く実家に帰りたい。本当は今すぐにでも飛んで帰りたいところだが、(どうせしないにしろ)タスクが山積みの状態で実家に帰って何か意味があるのかとも思う。
とにかく八方塞がりという感じです。
empty mannequin
焦り.
いつしか自分が特別に恵まれた人間であると思うことはなくなったけれど、
賞賛されたい、承認されたいという思いはいまだに消えることがない。
最近になってあまり人目を気にすることはなくなった。
誰も私に興味がないということに気が付いたからかもしれない。
けれど、昔身を置いていた、いまよりもっと狭い世界に戻ったとき、
対等だと思っていた友人が一芸に秀でていること。評価されていること。活躍の場をもっていること。
全てに焦る。
だからといって、好きなものはあるけれど熱烈に追いたいと思うことはないし、
結局何かに対峙する動機が他人への対抗心でしかないのはその時点で負けている気がする。
勝ち負けという言葉を使っている時点で彼女らとの間に高い壁があるような気もする。
私がこだわっているのは技術それ自体なのに対して、彼女らが芸術の本質に関わるようなことを志していると、そこでも負けている気がする。
そもそも負けたってなんだって、やりたい、やろうという気持ちにならない時点で自分の志し方は邪道なのではないか。
そうやって逡巡して、結局のところやめてしまう。
だけど、邪道である限り芸術に向き合えない気がする。
私はそうして、自分の芸術への態度が変わるのを一生待ち続けるのだろうか。
邪道でもなんでも、まず始めてみよう、続けてみようと思うこともあるけれど、
本当に深刻に、体力がない。
出かけて帰ってくるだけでへとへとだし、ぼーっとスマホの画面を見ているといつのまにかかなりの時間が経っているというような毎日である。
体を鍛えようにも運動する体力がない。
結局いつも最低限のやるべきことをギリギリのラインで終わらせているだけで、
それでも自分は学業においては頑張っている、能力があると信じてやまない面もあるので厄介である。
とりあえず惰性でうたもおどりも続けてはいるけれど、
どちらにも理想や目標や熱意がもてず、何のためにやっているのだろうと思う。
でも、何かに責任を負うような気力も体力もない。
結局のところ、何かで成功したいだけ、承認されたいだけのような気もする。
ただ、英語とボーカルには関心がある。
少なくとも今までやっていて、惰性で続けていることよりは。
しかしいかんせん体力がないので、方向性も計画も何も定まっていない。
ただ、変えるなら今だよな、とも思う。
このブログはただの思考のアウトプットだし、
思考をきれいに整理することも何かを解決することも目的としていないけれど、
我ながらどうしようもないというか、優柔不断で八方塞がりな状況だなと思った。
変えられるところから、根本的にというよりは障害物を取り除く感じで変えられたらいいなとは思っています。まずはちょっとTwitterを離れようかなと。
全然行けていない稽古だって、いつか行ける日のために身体作りはできる。
ボーカルスクールやアルバイトについても少し調べてみようかな。
当面のところはこんなところです。