がらんどう

雑感.

しんどい

最近本当にしんどい。

季節の変わり目だったり、気温差が激しかったりで周囲も体調を崩しがちであるとは感じるが、それでも皆そこそこ上手くやっているのですごいと思う。

 

ここ1週間ほどは本当に体調が悪い。

寝ても寝ても眠いし、気分は晴れやかとは言えないし、キャパシティに比してあまりにもやることが多い。

地面すれすれに低空飛行して何とか乗り切ってきたが、タスクをどんどん後ろ倒しにしてしまっていて、そう遠くないうちに破綻するような気がする。

読みたい本ややりたい勉強は山ほどあるのに、そのうちの一つもする時間あるいは体力がない。映画も結局は期限内に観られないまま返してしまうことも増えた。

そういうときというのは外部に癒しを求めるのもまた一苦労で、

食べたいものがなくなる。行きたいところに行く気力がなくなる。というか、行きたいところもなくなる。

という具合に、とにかく身体を覆う霧のようなものが何かの拍子にパッと晴れてくれるようなことでもないと、ただただ前向きに生きることが難しく、しんどい。

 

最近はある程度確信がもてていた、あるいはある程度は開き直っていた自分の能力に関しても、とにかく無能感がすごい。

今も昔も男性には負けたくないという思いでやってきたが、

思いがけない人が私の思っていたよりずっと成績がよいということがわかって、

まだまだ上を見なければならないのか、とか、

こんなんでアカデミアでやっていけるのか、とか(現状本当に無理な気がしている。能力云々もそうだがメンタルが弱すぎる)、

自分に対する信頼性は下がる一方で、そうなると当然自分の進むべき方向も、動機づけも失われてくる。

 

また、昔の両親との確執や学校での不適応を思い出すことも増えて、しんどい。

色々あってから両親も変わったと思っていたが、最近根本的なところは何も変わっていないのではないかという思いになることが多い。

母は以前私がとある精神疾患にかかったとき、

「私だって落ち込むことはある」「そんなことで病気と言っていたら皆病気」というようなことを本気で言っていた。

その精神疾患というのは医師に確定診断を受けているものであったし、

明らかに一般の人がもつような「落ち込み」とはその程度においてかなりの差があるはずなのに、

その差を理解しようともしなかった、というか、母にとっては自分の推論こそ絶対的正義であったのだと思う。

そしてその態度は今も変わっていない。

私は多分発達障害だ。

色々な制約があって確定診断はまだ受けていないが、

注意欠陥型のADHD自閉症スペクトラム障害を併発していると思う。

そして私の異常なまでの集団における「やっていけなさ」を、これまた母は理解しようとしていない。

口調こそ柔らかいものの、

「そんなことで障害と言うなら私にも障害がある、皆ある」「何でも障害のせいにするな(「何でも」障害のせいにしたつもりはないし、むしろ障害の可能性を考えるまでは自分の「やっていけなさ」を精神発達の未熟さや傲慢さに帰して自責していたほどである)」という台詞を、数年かぶりにこの耳で聴いてしまい、萎えてしまった。

 

正直こういう状態になると、健康に生きている人が心底妬ましくなる。

もちろん、個々人がそれぞれに特有の悩みや事情を抱えて生きているというのは想像できるが、

それでも体力だったり、情動の安定性や気質だったりと、

おそらく一般的にある程度までは遺伝や脳の器質性で説明される、つまりある程度生得的なものについてハンデを感じることは多い。

 

来週末には溜まったタスクが全部終わっているのか、そんな平穏な来週末が訪れるのか、正直なりゆき任せである。

とにかくしんどい。しんどかったので、しんどい記事を書かせてもらった。

明日は新しいアルバイトの面接がある。

とりあえず、目の前のことをひとつひとつこなせていけば、報われるだろうか。

今日はここまで。